幻月と桜霞
幻月 2023/08/22
「嘘の衰退」
僕らは深い海の底にいる。
足元の砂漠に散らばる思い出が煌めく。
その美しさを作品に宿したい。
少しずつ剥がれ落ちていく記憶を書き留めたい。
書き留めて、それで、
わかって欲しかったんだ。
あなたの目に、心に、魂に映したかった。
僕の目が見たもの全てを、感じた心の響きを。
それがあなたに伝わらないことが堪らなく苦しかった。
苦しくて、踠く。
踠いて、視界が揺らぐ。
視界が揺らいで、漸く気がつく。
あなたには伝わらない、誰にも届かない、
昔見た舞台も、
喉を通る冷たい風も、
百日紅の咲くバス停も、
無謬の月明かりも、
あの日の言葉も
全部僕にしか見えない
幻なんだから
「山椒魚」
朝焼けに呼ばれて発つ舟。
温い夜に灯る隣町の祭り屋台。
茜色を追う様に帰る夕暮れの烏。
憂いの降り積もる冷たい朝。
心を奪う程の綺麗な景色。
幸せを願うのを辞めた時から、
夢を追うのを諦めた時から、
何処か世界が美しく見えた。
でも、その景色は他人が描いたものだ。
自分はその景色を持っていない。
だから、自分の視た綺麗な像を、消えないように、
色彩の一つも違わないように描きたいと思った。
言葉にしたい。
音にしたい。
誰に届かなくてもいい。
僕にはもう時間がない。
それなのに
言葉にする瞬間、息が詰まる。
誰かが喉の奥を塞ぎ込んだみたいに出口を失う。
そんなものは逃げだ偽物だと、
批判紛いの言葉が自分の声の様に聞こえる。
答えだったはずの音が沈んでいく。
信念だったものが存在していた痕だけ遺して涙に変わる。
何の慰めにもならない毒になって静かに溢れる。
目から溢れたそれは海に溶けて輪郭を失う。
自分が何者かが、分からなくなっていく、
何も出来ない、
自分が揺らいでいく。
それでも魂はここにいる、その感覚だけが確かだった
こんなに成ってももがくなんて
いまでもきっと
僕は
何かを願うことを辞めてはいないんだろう。
「月影」
あなたの幸せは何処に在るんだろうか
それを叶える術を僕は持っているんだろうか
あなたの行く末を照らす光でありたいと
ただ一つをずっと願って止まない
「君の話」
長い夜を歩いて来た。
振り返って、足跡が刻まれた道を眺める。
もう一度この夜を過ごせたらと、僕は願い留まる。
でも、それはきっと詰まらない。
こんなにも美しい夜を、僕も、あなたも、いつかは忘れて仕舞う。
声も、顔も、名前も、記憶として剥がれ落ちて仕舞う。
それでも、忘れてしまった僕らを形作ったこの時間が、
確かに此処に刻まれているように、
あなたがあなたでいられる理由が此処に残っていますようにと願う。
もうすぐこの物語も終わる。僕らはそれを知っている。
でも、小説でも映画でもないこのフィルムは、もっと長くていい。
エンドロールの後も続いていく物語がいい。
僕らが見ているのは幻のような、魔法のような現実。
僕もあなたもきっと魔法使いで、時間と言葉と音楽が、僕らの使える魔法。
見て、聞いて、食べて、過ごして、笑って、泣いて、そうして彩っていく。
これじゃあまた、わかってくれないだろうな。
君になら、わかってくれなくてもいいか。
諦めも許しも、間違えてしまった時間も全部抱えて、僕らはゆっくりと歩き出す。
まだ喉の奥に夏の匂いが残っている。
夢の終わりに向かって、そっと目を開く。
夜しか照らさない夜明けにもに似た光、目蓋を照らす幻燈に別れを告げるように。
桜霞 2025/03/17
「明けぬれば」
泣いている。
私は泣いている。
ずっと夢を見ていた。
私は夢の中で、何かを探している。
長い迷路の中で、月明かりだけを頼りに、
欠けてしまった何かを探している。
思えば昔からそうだった。
私には私を成す何かが欠けている。
穴が空いている感覚がする。
この涙はきっと、心に空いた穴から溢れ出る寂しさだ。
そして、夢から覚めた後も、その何かを探している。
身体を起こす。
歯磨き、朝食、少しの身支度を済ませて、部屋を出る。
一人で静かな緑道を歩く。
いつもの様に穴が空いた感覚の在処を探す。
ここにあったはずなのに、ここにはない。
思い出、なんだろうか。
ここに姿形は無いけれど、
ここにあった感覚だけが残っている。
いつからか、同じ日々を繰り返している。
思い出の跡を辿って、同じ場所を巡っている。
きっと、私は探している何かを知っている。
ただ、その何かに気付けないでいる。
それでも、ずっと、繰り返して、巡って、何度も辿って。
いつかきっと、その何かと巡り合う。
そんな不確かな自信が私にはあった。
暫く歩みを進めた私の目の前を、
一匹の蝶が泳いで行く。
その美しい羽に見入って、蝶の行く先を眺む。
私はここで、探していた何かに漸く気がつく。
いつもの景色に映る何かに気付いたその時、
強く気を惹かれる様なあの感覚。
いつも通りの筈の景色に滲み出る、
前世の記憶の様な、朧な輪郭。
目の前の景色は広場に佇む一本の欅。
木陰に立つ人影がこちらを向いて、
「おはよう」と言う。
私はまた、夢を見ている。
そうだ、私はいつだって、
欠けてしまったあなたを探していた。
「夏の夜は」
こんな夢を見た。
×××と話す夏初月の夕暮れ。
あなたの言葉に触れる。
喉の奥から現れて響くそれは、
まるで魔法の様に輝く。
ずっと好きだったこの時間を、
手放すことが寂しかった。
どんなに美しい言葉を並べても、
どんなに緻密に描いても、
あなたとの想い出に
代えられるものなど無かった。
月日と共にゆっくりと変わっていく私たちから、
薄れ去ってしまうことが哀しかった。
こんなにも美しい時間を、
私たちは忘れて仕舞うのだろうか。
またあなたが居なくなったら、
私は忘れて仕舞うのだろうか。
そんな不安を私は口にする。
一拍置いて、あなたは私の顔を覗く。
夜紛いの夕暮れが二人の影を映す。
「きっと逢いに来ますから」と
あなたの声が鳴る。
耳に届いた言葉が、私の心を和ぐ。
懐かしい匂いがした。
陽が沈む。影が見えなくなる。
ただ一人の広場に、夜鷹の声が響いている。
「めぐりあひて」
心一つをあなたの傍に
目蓋の燈を離さぬ様に
幻の様な月明かりも
霞む桜の思い出も
ゆっくりと散っていくこの一時を
私はいつまでも想うのでしょう
「瀬をはやみ」
夕方の防災無線がカーテンの向こう側で鳴る。
君を連れて散歩に行こうかと考える。
夕飯の当てが無い台所を眺めて、
行き先は商店街にしようかと思いが巡る。
振り返ってソファに座った君の顔を見る。
君と居ると心地が良い。
この前見た夢の匂いに似た感覚がする。
懐かしくて、儚くて、心の落ち着く時間。
私にはそれが愛おしかった。
この時間を残したい。何かに残したい。
フィルムに写る一瞬をアルバムに遷す様に、
思い出の一つ一つを、私に綴じ込んでいく。
ゆっくりと変わっていく私たちの、
今を生きた時間の一片を傍に置きたい。
思えば昔からそうだった。
私たちを成していくこの時間を描きたかった。
ゆっくりと変わっていく私の、
変わらないものがこれだった。
今更かもしれないけれど、これがいい。
茜色に染まる窓辺に座って、
そんなことを考える。
夕日と一緒に流れ込む烏の歌声で、
散歩のことを思い出す。
そういえば、お腹も空いた頃だった。
今日は何を作ろうか。歩きながら考えよう。
椅子を離れて、鞄を手に取る。
一足先に玄関に向かった君を追う。
また、懐かしい匂いがした。
私は想像する。笑みが溢れる。
きっと私はまだ、夢を見ている。
私は靴を履いて、扉を開く。
夕凪の街に向かって、ゆっくりと歩き出す。
昇り始めた月を眺めて、
私は今日も想いを馳せる。
あなたとの日々を描いた、
夜しか見えない夢の続きを。
私は今日も想いを馳せる。
朝、目が覚めて、
「おはよう」と微笑む、
夜明けの君を。
幻月 備忘録

月光という作品がある。
ヨルシカの物語の一つ。
幻にしてしまった公演、エルマとエイミーの物語。
だから幻月。
幻燈、月光、幻月。
月と猫のダンス。
幻月とは、月の左右にも別に月が見えるような現象を指す。
盗作、夏初月、前世、そして幻月。
どうかこれを読み終えたら、ここに記したことは忘れて欲しい。全て消すことは出来ずとも、あなたが最初にこの作品に触れたときの心は、そのまま覚えていて欲しい。
この備忘録はヨルシカを題材にした舞台「幻月」について記す。本家ヨルシカのものとは関係ないが、構成上以下の作品を踏襲している。
Live「前世(2021)」
Live「盗作」
Live「月光」(再演)
Live「前世(2023)」
Live「月と猫のダンス」
元々「幻月」という題の舞台を作るつもりは無く、ヨルシカに元々存在する「月光」という作品を春、夏の二公演で構成させるつもりだった。しかしそれは色々あって叶わなくなる。題は「月光 Elma」「月光 Amy」の二つ。ここでヨルシカの物語を直接的に取り入れて描写することを考えていたが、それが出来なくなった。それで、また自分の考えを落とし込んで綴ってみようと組み上げたのが「幻月」となる。以下はその構成、意図を書き記す。私自身が忘れないうちに、文字に落とし込む為に。
「嘘の衰退」
嘘の衰退 - オスカー・ワイルド
人生が芸術を模倣する
ヨルシカの作品の一つに「だから僕は音楽を辞めた」というアルバムがある。私が初めてヨルシカに触れた作品であり、青年がとある女性に残した手紙と木箱を模したものがCDに付属している。
青年の名前はエイミー。彼はオスカー・ワイルドを敬愛し、手紙に綴る言葉の随所にワイルドの思想が現れる。その一端に登場する言葉が「人生が芸術を模倣する」である。
オスカー・ワイルドの著書である「嘘の衰退」に記された一遍。芸術の美しさは芸術でしか表せない、芸術しか持ち得ない。人生が持つ美しさでさえ芸術の模倣に過ぎないという「芸術至上主義」である。
幻月とは価値観の物語である。その幕開けを担う役がエイミー。「嘘の衰退」はヨルシカの物語の核とも言える彼をモチーフにした詩である。僕には音楽しかない、音楽でしかこの美しさは表せない。他の誰にだって分からなくていい。自分の描きたいものが描ければそれでいい。
でも音楽でさえ表すことに足りない。
ここではそれが伝わらない様を幻としている。
自分にしか見えない、あなたには伝わらない。
ヨルシカの物語では、エイミーは最期にその身を海に投じる。
深い海の底で彼は自分の人生を思い返す。
見た景色を、作った音楽を頭に浮かべる。
この情景はLive「月光」で描かれたものであり、このライブのポエトリーの一つ「走馬灯」の文構成が「嘘の衰退」に反映されている。
彼が思い返したものが彼の人生であるならば、この幻月という作品の中で思い返すのはこれまでの公演達だろうと思った。盗作、夏初月、前世、そして月光。
それぞれの公演で描こうとしたもの、それぞれの根源となった価値観の移り変わりを最後に「幻月」という作品に落とし込む。
ヨルシカの音楽も変わっていくように、それに準えて組み上げられた模倣作たちの移り変わりを描こうと思った。
「全部僕にしか見えない 幻なんだから」
なお、エイミーは最期まで考えるのは音楽のことばかりだと人生を回想した後、別のことを想う。この想いの転換が、今後綴る楽曲達の軸となる。
負け犬にアンコールはいらない
負け犬 - 岸田稚魚
自らを負け犬と標榜する
自虐を書き連ねたようなこの曲であるが、描かれる人物は自分のことを負け犬などと思ってはいない。他人を馬鹿にして生きている。高い自尊心と傲慢さを持って笑っている。害のない人間をアピールしながら、社会に溶け込もうとする。
それでも心の奥には弱さがある。その弱さには思い出が染み付いている。綺麗だった景色を手放せない。手放してしまえば自分には何も残らない。そんな思い出や自分を肯定しない奴等など消えて仕舞えば良い。
「負け犬だからさ想い出しかないんだ」
この曲はLive「前世(2023)」の1曲目でもある。また、2023年末にヨルシカがフェスに出演した際の1曲目でもある。これらのライブでは犬が物語に登場する訳だが、幻月ではあまり関係ない。でも覚えておくといいよ。
また、原曲に存在しないピアノを追加した。ほぼ全てのメロディが他のヨルシカの曲からの引用、やっていることはコラージュの技法に近い。切っては貼り、それを繰り返す。聴き馴染みのあるメロディが頭を奥を刺す。この曲だけでは足りない要素を記憶の奥から掻き立てる。気づかないならばそれでもいい。観客全員に気付きを要求するつもりもない。
自分の信じたものが全てだ。
簡単な言葉を並べただけの愛情なんて物は塵だ。
それ以外は全てどうでもいい。
「所詮音楽が響くか 何もかもが言い足るものか」
想い出の中の君がいないとして、それを何か形に残そうと、描こうとする。それなのにどんな言葉でも言い足りない。音楽という芸術に自分の思う形をそのままに記すことなどできない。信じた芸術さえも思うようにならず、失望のみが残る。負け犬という言葉だけが貼られた彼は、夢を諦めたと言ってもいいだろう。
そうして彼は再び後ろを向く。どこまでも美しい想い出に縋るために。
「また夢に負けて、昨日を愛しんで」
だから僕は音楽を辞めた
信念を捨てる
エイミーが最期、から一つ前に描いた曲。8月25日。音楽に縋るように生きていた彼は、ある夜に決意をする。この一年が僕の最期ならば、僕は僕の人生で作品を描きたいと。そうして彼はある女性に手紙を遺しながらスウェーデンの街を旅する。旅の途中で出来上がった手紙と音楽達は小さな木箱に納められ、女性のもとへ届く。女性の名前はエルマ。
エイミーは自ら曲を書き、歌い、そして一度音楽を奏でることを辞める。自らの創り出す音楽に価値を見出せず、辞める。しかし、ある日の雨のカフェテラスにて、彼は一人の女性と出会う。伏して寝ている彼の机から、風に吹かれて詩の書かれた紙が落ちる。音楽への夢を諦めきれなかった彼は、未だ詩を書き続けていた。彼女は落ちた紙を拾い、歌詞だと気付く。そこで彼は目覚め、彼女と関わるようになる。エルマはエイミーからピアノを教わり、彼は自らの価値観や創作について語った。そして二人は交流を深め、ある日エイミーはエルマが書いたという詩を見る。その時、彼はその詩に月明かりを見たのだという。再び曲を書こうとする原動力としてエルマの書いた詩がエイミーを突き動かす。そして後に、エイミーはエルマの前から姿を消す。彼は自分の人生が残り一年であると悟っていた。病気だった。だから彼女の前から姿を消した。そしてその一年で、自分の縋った音楽で、思い出を描こうとする。その音楽達が詰め込まれた14曲、その作品の題が「だから僕は音楽を辞めた」となる。エイミー自身を象った、エイミーの人生そのものとなる作品。その作品をエルマに遺して、彼は人生の幕を閉じる、自ら海に身を投じて。
私の考えでは、エイミーにとって、この曲が指す「音楽を辞めた」とは即ち人生の終わりである。
さて、ライブの話に移ろう。Live「月光」の最後の曲。Live「前世(2021)」の2曲目、Live「前世(2023)」の最後から3曲目。幻月でこの曲が担う役割は「前世」のもつそれに近い。少なくとも「月光」の持ち得るエンディング性ではない。「人生の価値は終わり方」という一節が「月光」での映像には登場するが、今回はその要素は取り入れていない。価値観が遷移する過程であり、終わりではない。終わりだとするならばそれは次へ進むための一区切り、生まれ変わりなんて言葉が似合うかもしれない。よって「幻月」ではヨルシカという物語に引き込むための曲、創作への強い信条を持つエイミーという存在を前面に誇示するために2曲目を担っている。そして1曲目「負け犬にアンコールはいらない」と要素は似通る。
「愛も救いも優しさも 根拠がないなんて気味が悪いよ」
自分の信じたものは自分の願いを叶えてはくれない。世を行く人々に対する劣等感が募る。自分の信じたものへの疑念が募る。
音楽を、芸術を信じていたのに、自分にはそれしかないのに自分の描きたいものも満足に描けない。そうして自分は壊れていく。
「本当も愛も苦しさも人生も どうでもいいんだ」
451
嘲笑いながら愛を欲する
ヨルシカで唯一、n-bunaがメインボーカルを務める曲。彼が歌うことになった背景は語られてはいるが、私は語られているものとは別の解釈を持つ。この曲が持つ景色は華氏451度の情景をそのまま想起させるが、心情の描写としては「幻月」の1曲目に据えた「負け犬にアンコールはいらない」に近いと感じる。負け犬にアンコールはいらないを女性が歌うことには、ヨルシカの物語上正当な理由がある。その理由を抜いた場合、詩を書いているn-buna自身の声は451をヨルシカの曲として成立させる要素に成り得る。
さて「幻月」ではどうか。この曲は燃やすという言葉が繰り返される。燃焼、焼失。炎上。現代で用いられる「炎上」は別の意味を持つ。一つに纏めるならな「批判」だ。華氏451度では本の存在が否定される。そして本という存在に魅力を感じた主人公は、社会から批判を受け命まで狙われる。批判されうるべき存在。ここではこれまで私が組み上げた模倣作を指す。
批判とまでは言わないかもしれない。ただ褒められたものではないと思った。
「見ろよ、変な奴らだ そんなに声を荒げて たかが炎一つに熱を上げてる」
「盗作」では書き換えのヨルシカを、「夏初月」では憎しみと怒りを描いて、それが歓迎されるような位置を得たことに違和感があった。お前の作ったものは紛い物だ。こんな状況を作った自分を一回殴った方がいい。それでも歓迎される声を望んでいる自分もいる。何処まで行っても承認欲求に駆られているのだろう。
「飽きるまで愛して」
舞台を作る側は言わずもがな、見る側も頭を使え、考えろ。五感に入り込む情報の全てを咀嚼して処理しろ。きっと何かが視えるはずだ。作者が意図していない、潜むものが視えるかもしれない。それを探りだせ。ただ凝ったものを褒めるなんてことはしたくない、して欲しくない。
「さぁ消費して 踊って 踊って 踊って 踊って 踊って 踊って」
そんな感情を詩に乗せる。技巧的な観点の一切を排除して、451に俺の声を使うことにはきっと意味がある。そう信じている。
「山椒魚」
ヨルシカの作品の一つに「エルマ」というアルバムがある。エイミーから木箱を受け取ったエルマが、彼の手紙を手掛かりにスウェーデンを旅して日記を記すという物語。
エルマにとってエイミーは何より大切な存在であった。エイミーから遺された作品を大切に思えど、エイミーそのものに変えられるものなど無いと言う。山椒魚が岩屋に蛙を閉じ込めた様に、エイミーとの思い出が外に出て行かないよう閉じ込めようとする。また、エルマ自身もエイミーと過ごした時間の中に留まろうとする。そして彼の遺した手紙を追って彼と同じ道を旅し、彼の遺した音楽を擦るようにして自らも音楽を作る。彼女は彼を追い、追い切った末、何もできないと考える。エイミーが亡くなったところまで道を追いかけて、それ以上進めなくなり自分自身を見失う。旅の末、エルマはエイミーの遺した別の物を見つける。そしてエイミーとの思い出とメッセージを受け取ったエルマは、エイミーの模倣を終え、自らの道を生きることを決める。
「幻月」での描写に話を移す。これまで生きてきた中で、自分が触れてきた景色を美しいと回想する。ここではヨルシカの作品の数々を当てる。枕草子で書かれた様な自然の描写に喩えて、感じた心の揺らぎをそのまま言葉に落とし込む。揺られた心は、自分でも何かを描きたいという欲を駆り出す。しかし駆られただけの欲では何かを書き出すことは叶わない。搾り出すように喉の奥から出て来た物は所詮出涸らしで自分の求めていた物には程遠い。
音楽や創作に対する満ち足りなさを抱えたこれまでの3曲を経て、それでも尚思うようには描けない。駆られた欲は腐っていき、理想を持っていたはずの自身も朽ちていく。もう自分には何も残っていない。何かを作るだけの力も無かった、無理だったのだ。夢はもうここへ置いていこう。
心は空っぽになった、はずだ。それなのにまだ生きている。やりたいことも叶わなかったはずなのに、何かをしようとしている。
何だ?
まだ何かを諦めてはいない。惰性で生きているという言葉では片付けられない、心の奥底に落ちている欠片がまだ自分を突き動かす。まだ自分は何をしようとしているのだろうか?
「こんなに成ってももがくなんて
いまでもきっと
僕は
何かを願うことを辞めてはいないんだろう。」
この先の物語はこの「何か」が「他者への想い」として機能する。
語り手には3人目。
Live「月と猫のダンス」ではn-bunaがポエトリーではなくボーカルを務め、曲間には劇俳優が物語を進行させる。n-bunaによる歌唱、俳優による物語の進行、suisによる歌唱へ戻る流れの構成。451という曲を取り入れることによる異質さ故の3人目。
そしてこの次の曲「チノカテ」が、春に一度同じ会場で演奏されたことによる導きの役割。ボーカルはコーラスに変わる。君はあの春の景色を何か覚えているだろうか。記憶に残っているものはあるだろうか。
ここから先は幻月の後半、「山椒魚」は場面転換の役割を持つ。時間は夕暮れから夜へ。そして物語の軸には自分以外の他者が現れる。
それは、あなたにとってそばにいる人。その人のことを想って、先に進んで下さい。
チノカテ
地の糧 - アンドレ・ジッド
知らない世界を見る
「君はすっかり読んでしまったら、この本を捨ててくれ給え。そして外へ出給え」
この備忘録の最初にも似たことを記したこの一節は、「地の糧」という本に拠る。
僕らは長い道を歩いている。この道は人生の比喩だ。その過程で、こうありたい、こうなりたいと夢を持つことがある。夢は人にとって生きる指針となる。ただ往々にして夢は叶わない。夢を諦めることも多くあるでしょう。自分の理想は叶わない、希望はもうそこに残っていない。これは前半でのテーマに近い。
ここからは後半、物語を次に進める。私は「夢を諦める」ということを否定的に捉えないで欲しい。これを見ているあなたにとって最も身近な話をしよう。あなたはこの大学に入った時と同じ思いで居るだろうか。きっと「違う」と私は思う。でもそれは否定されるべきじゃない。あなたが目指してした姿があったとして、それに成れなかったとしても、あなたは時間を経て変わっている。過去に描いていた理想を糧に、今のあなたは次に、別の何かに成れるはずだ。「夢を諦める」。それはあなたがこの先の道を進むための一区切りだと、前向きに捉えてもいいじゃないか。たとえ全く別の方向へ歩みを進めたとしても、間違いなくあなたは前へ進んでいる。
あなたはあなたのままで生きていて欲しい。誰かに何を言われても、あなたの思うように居て欲しい。今のままがいいのなら今のままで、変わりたいと思うなら変われるように。あなたの思う自分の姿でいることを肯定したい。
「ずっと叶えたかった夢が 貴方を縛っていないだろうか?
それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら」
これまで生きてきて、色々な経験をしたでしょう。それを抱えて心の内に篭ることも出来るけれど、どうか外の世界を見てみて。あなたの周りには人がいる、動物がいる、自然の景色がある。あなたがあなた以外の物に触れたとき、何を思うんだろうか。今まで大事だと思っていたもの以上にあなたを前に進める何かに出会えるはずと私は信じています。
「それでいいから そのままでいいから」
「山椒魚」では、エルマが喩えた岩屋を、彼女自身が中で彷徨うものとして、その心情を映すように描いた。チノカテはその岩屋から出て行く様。自らの迷いは抱えたままでも、外の世界へ出て行く。
チノカテ以降の映像制作は私が行った。「地の糧」という本は、語り手が友人のナタナエルに対して自らの思想を綴る様にして構成される。同じようにして、手元に詩を書く。言葉を並べ、筆先から紙に落とす。最後にはあなたの前に本は残らず、綴る私も何処かへ行く。インクの色は月夜。エイミーが使っていた物と同じ。

あなたがあなた自身で居ることの肯定。それでいいから、と。
左右盲
幸福な王子 - オスカー・ワイルド
幸せを願う
普遍的な恋人の別れの曲。とされているが、ここでは単に別れの曲としよう。誰との別れとするか、きっと友人くらいの気持ちでいいだろう。
この曲は童話「幸福な王子」をモチーフとしている。幸福な王子の銅像は金や宝石で飾られ、街の中心に立つ。王子は足元で羽を休めていた渡り鳥に話しかけ、街の貧しい人々に自らの金や宝石を分け与える。
左右盲で描かれているのは恋人との別れ。共に過ごした時間を少しずつ忘れていく。あなたと過ごした景色を思い出そうにも、記憶はぼやけて上手く思い出せない。それを王子の像から金が剥がれたように、記憶を剥がれ落ちるものとして喩える。記憶は薄れていく。それでもあなたの行く先が幸せであるようにと願う。
「幻月」は恋愛詩的な描写をするつもりはない。忘れていく人を恋人に限らず、人生の中で出会い、別れていく人に当てはめる。生きていく中で、私たちには数知れないほどの出会いと別れがある。別れてしまったその人たちとの時間は間違いなく自分の中に「あった」はずだ。なのに私たちはそれを忘れてしまう。大切な人のはずなのに、頭はその記憶を鮮明なまま保ってはくれない。その惜しさを綴りたい。
「一つでいい 散らぬ牡丹の一つでいい 君の胸を打て」
Live「前世(2023)」とLive「月と猫のダンス」で共に最後から1つ前の曲。描いた情景としては「前世」の方が近い。映像を観てもらえればきっと意味は伝わるでしょう。「前世」では男性と再会した後の一室。「幻月」では再会した桜並木の通り道。雨が降っている。どちらとも私はもうそこにはいない。それでもあなたのことを想っている。
補足的にはなるがこの曲は映画「今夜、世界からこの恋が消えても」の主題歌である。ヒロインは眠ると記憶を失くす前方性健忘を患う女子高生。主人公はそんな彼女と共に生きようと寄り添う。映画を観た後、左右盲が主題歌であるというよりヨルシカが主題歌を務めることに意味を感じた。自分の大切な人のことを忘れてしまったとして、それでもその人と共にした時間は確かに自分の中に刻まれている。頭が持っている記憶でなくとも、想い出が自身にちゃんと残っている。「盗作」で描いて「幻月」でも繰り返し述べた、寄せ集めで人が出来るという考え方。私はこれをずっと追っている。

あなたは何かに成ろうとする。夢を追う。それに成ることを求めているのかもしれないし、その先の幸せを求めているのかもしれない。いずれにせよ、あなたにとってその理想は正解の一つに過ぎない。何なら正解ではないかもしれない。あなたが夢を諦めたとして、他の道を進んだとして、そこにも幸せはあるはずだ。道は沢山あるだろうから、少しずつでも前へ進めますように。
「月影」
moonshadow - NOMELON NOLEMON
願い
月光という作品がある。
エイミーの最期を描いた走馬灯。
「最後まで考えるのは音楽のことばかりだ。」
エイミーは最期まで考えるのは音楽のことばかりだと人生を回想した後、エルマのことを想う。
「今更だ。今更、君に会いたいと思った。」
「生まれ変わってでも僕は君に会いに行かないと駄目だ。」
幻月で描こうとした価値観の遷移について。音楽だけを信じていたところから、人のことを想うようになる。人と関わって、景色に触れて、人と出会う。あなたの周りにはあなた以外の人々がいる。出会って、別れて、あなたには色々な人の要素が寄り集まる様にして積み重なっていく。あなたはそれを感じ取る。あなたには目の前の芸術以外に、あなたを作り上げる他者がいる。その人に寄り添うようになって、幸せを想う。ただ、あなたのそばにいる人はいつかあなたのそばから居なくなってしまう。それでもその人の幸せを想うのならば、それは「願い」や「祈り」になる。私はあなたのそばに居られないけれど、それでも幸せであって欲しいという願い。もう直接関わることはできない、傲慢だとしても自分があなたに何かを成すことはできない。だからせめてこの時間が、ここで過ごした時間があなたにとって行く先を照らす光でありますように。そしてあなたの後ろに出来た影があなたを支え、背中を押す力になりますように。これが「幻月」と「エンドロウル」の「願い」になる。

あなたの幸せは何処に在るんだろうか
それを叶える術を僕は持っているんだろうか
あなたの行く末を照らす光でありたいと
ただ一つをずっと願って止まない
あなたの幸せが何処に在るかも
それを叶える術も
僕にはわからない
それでも、このエンドロウルの先で、
夢から覚めた先で僕らの音が解けてしまっても
あなたを映す影が、時間が、記憶が、
あなたを支え、突き動かす力になりますようにと
ただ一つをずっと願って止まない
この時間が終わって仕舞えば、そこには別れが待っていて、私とあなたが過ごした時間は記憶と成って残る。私にとってこの時間は何にも代え難い。
エイミーはエルマの存在を月明かりと喩えた。でも、この作品は「月光」ではない。あなたにとって月明かりと言える作品ではないだろう。月明かりはこの作品でなくていい。
あなたがここで過ごした時間。そこに幻の様な月明かりを一瞬でも見出せたのなら私は何より嬉しい。あなたにとって生きる糧、背中を押す力。あなたがあなたとして振る舞える力に成り得るもの。この場所であなたが過ごした時間がそうであって欲しい。
「貴方の夜をずっと照らす大きな光はあるんだろうか?」
「わかるだろうか 君の幸福は 一つじゃないんだ」
もしもここでなくとも、あなたにとっての月明かりと影は、きっとあるはず。どうか見つけて、大切にして下さい。
「どれだけ あたしのこの記憶が 解けて消えたって 照らせ 空まで あなたまで」
アルジャーノン
ゆっくりと変わっていく

私たちは時間を経て、色々なものを得る。あなたを作り上げる要素は少しずつ増えていく。寄せ集めて形作られていく過程で、少し崩れ落ちていくこともあるでしょう。砂場の山が何処までも高くはならない様に。そうして僕らは少しずつ形を変えて、寄せ集まって、変わっていく。
変わっていく中で、それでもあなたには変わらないものがある。あなたにとっての芯と言える部分はとても眩しく、私はどう生きても追い付けそうにない。
この曲で繰り返される「貴方」は誰だろうか。一つの捉え方として「過去の自分」が当たる。今の私が過去の自分を見ている。先の見えない人生という迷路の中で、先へ進もうとしている過去の自分を見る。昔の自分はどうしていただろうか、何を作っていただろうか。初期衝動に駆られるがまま突き進む姿を、きっと今の私は持っていない。私も変わってしまっている。未来の私にとっても今の私は別物で、時間は止まることなく変化を起こす。私にもあなたにも行く末なんて分からない。それが分かるのは神様くらいで、神様になれない私たちはずっと迷路の中を進み続ける。
この迷路には他の誰かも歩いている。その人は自分よりも自信を持って進んでいるかもしれない。自分には到底出来ないやり方で道を切り拓いているかもしれない。一方であなたは上手く進めずに立ち竦むこともあるかもしれない。あなたはそこで進むことを諦めるだろうか。立ち竦んでも、悩んでもいい。止まることは悪いことじゃない。どうか覚えていて欲しいことは「あなたがここまで進んできた」ということ。あなたにはそれだけの力がある。もしくはあなたを押してくれるだけの何かがある。だから迷ってでも、この迷路の先を見に行って欲しい。
「貴方はゆっくりと変わっていく」
Live「月と猫のダンス」の締め括り。ただそれ以上にこれまでのヨルシカのライブ達の締め括りの役を持つ。少しずつ記憶の断片を辿るように景色が移り変わる。「盗作」や「夏初月」で使った写真達は褪せた記憶として色が剥がれ落ちる。これまでヨルシカのライブが行われてきた各会場の写真達も同様に色はない。エイミーやエルマの描いた手紙や日記、チノカテで記した手帳。そして実はLive「月と猫のダンス」では最後のサビに映像は無い。花束の様な光の演出が施されていたが、「幻月」では映像として花火を映した。夏の憧憬、弾けるように消えて行く記憶の喩えとしてもいい。花火は「花に亡霊」で用いられた演出の引用。「盗作」でもやった演出をもう一度やりたかった。きっとヨルシカも、まだお話はこの夏を描いているだろうから。
「私は今夏祭りへ向かう途中だった。」

人は時間が経てば変わってしまう、という言葉はアルジャーノンという曲が世に出る前から私の中にあって、幾度かそれをアウトプットしてきたつもりでいる。人の心なんてどうなるか分からない。一年先どころか一秒先だって分かりやしない。どんな約束も絶対になんてことは有り得なくて、私以上にあなたの心を揺るがすだけの要素はきっとこの世にあるのでしょう。それでもあなたを作り上げ、変えていく寄せ集めの中でずっと変わらないものがあって欲しい。人を信じて共に過ごす心があって欲しい。ここで過ごした時間があなたを形作る軸になって欲しい。チノカテで触れた「夢を諦める」という言葉。左右盲で触れた「あなたの幸せ」という願い。私はこんな模倣作でも、何かをあなたに伝えられただろうか。
「貴方はゆっくりと走っていく 長い迷路の先も恐れないままで 確かに迷いながら」
「君の話」
君の話 - 三秋縋
ここで過ごした時間は私にとって夢のようだった。でも、もう少しでこの時間も終わって仕舞う。私たちは終わりが来ることに気づいている、終わりが来ることを知っている。夢のような時間なら、夢を見る時間、夜に喩えよう。そしてこの時間の終わり、夢の終わりは夜明けだ。夜しか見えない夢の時間。
ここまで長い話を書いてきた。全てを読んでもあなたに全てを分かってもらうことなんて叶わない。伝えられることには限界がある。それは冒頭で触れた通りで、自分の見える景色は自分にしか見えない。あなたの目に映る景色はあなたの過ごした時間と得てきた経験に依る。だから「わかってくれなくていい」と思う。自分で描いたものは、姿を変えてあなたに届く。自分の美しいと思ったものは、相手にとって美しいとは限らない。自分の魂を打った作品も、相手にとっては平凡なものかもしれない。昔ならばそれに憤りを覚えることもあったけれど、今なら受け入れることが出来る。今の価値観の主軸にはちゃんと人がいる。あなたの見たこの作品の色があなたにとってのこの作品なのだと、創作の価値がそこにあると思った。それを主題として一つの舞台を作る程に。
夢ような時間も繰り返しはきっと詰まらないのだろう。時間は積み重ねだ。取り出して乗せ直そうにも、崩れて戻せなくなる。あなたにとってここで過ごした時間はどうだっただろうか。あなたらしくいられる時間、あなたらしさを表現できる場所。ここがそうであって欲しいと思ってきた。あなたの周りの人が、あなたの姿を見て受け入れてくれる、優しい場所。
いつかこの時間はあなたにとって糧となる。寄せ集めの一片となる。これが人生の価値観さえ揺るがす程になるのか、剥がれた落ちて行く記憶の一片になるのか、私には分からない。それでもこの時間はあなたの中に残り続ける。絶対に。
あなたらしさの表現と書いたけれど、ここでやったことは所詮コピーバンド。あなたの作った音楽じゃないし、あなたの記した言葉じゃない。どう足掻いてもこれは事実として変わらない。僕らのしたことはただの模倣だ。
でも、その音楽があなたを作り上げたのなら、その言葉があなたから生まれる言葉の源なら、その音楽や言葉をあなたがあなたの大切な人に向けて発することには意味がある。そう思う。だからこんな物語を書いた、あんな話をした。あなた自身を語るためにあなたが生み出した言葉を並べる必要はない。あなたを作り上げた言葉を並べよう。人は寄せ集めで出来ているのだから、借り物に見える言葉もあなたの言葉に足りうる。
「それを掻き鳴らすこと歪さを叫ぶことこそがロックンロールの正体」
あなたの中にある言葉も音楽も、いつかは薄れていく。記憶の奥底に残っていても、すぐには取り出せなくなるでしょう。でもある瞬間、ふいに記憶の奥からそれが再び姿を現したとき、言葉は、音楽は、代え難い程の輝きを魅せる。それは、まるで魔法の様に。時間と言葉と音楽が僕らの使える魔法。僕らはこの輝きを意図せずに見る。ただ、この輝きを意図して起こすこともできる。あなたの記憶の奥底から呼び覚ますことができる。時間を経て再び現れたそれは、きっと何よりも美しい。
「僕らが見ているのは幻のような、魔法のような現実。
僕もあなたもきっと魔法使いで、時間と言葉と音楽が、僕らの使える魔法。」
この魔法という言葉はNOMELON NOLEMON「フイルム」に拠る。
「記憶は花火のように 弾けてはぼかし合っていく
魔法は解ける為に有って その時に色めくフイルム」
そうして「幻月」の幕引きと「エンドロウル」は結び付く。気付かなくてもいい程に密かに。あなたが分からなくてもあなたの中に残るように。
僕らが見ていたのは夢のような物語。目を閉じているときに見るもの。だから、目蓋にその景色が映ると考える。映写機の様に夢を映すそれは幻燈。朝が来れば、目を開けば、夜しか見えないこの夢ともお別れ。そうやってこの時間に別れを告げる。記憶を、想い出を、溢さないように大切に抱えながら。
「全部を読み終わったあとは どうか目を開けて この本を捨てよう、街へ出よう」
ここで時間を共にしたあなたが、この時間を糧にしてこの先もどうか幸せであるように。そしてあなたがあなたらしく生きていける後押しになるようにという願いからこの二公演は成る。ヨルシカとNOMELON NOLEMOMという混じり合わない2つの音楽を、2つの舞台で連続するコンセプトとして提示する。言葉が記憶の奥で絡み合うことで、あなたにこの魔法を感じて欲しかった。上手く出来ただろうか。
どうかあなたの行く先に、光がありますように。
この物語に続きがあるならば、別れの後、夢から覚めた後のお話。
魔法が解けた後に、あなたは何を想うのだろう。